日本・コリア(韓国・朝鮮)音楽祭2000 高木東六・作曲 オペラ「春香」より/「水色のワルツ」
朝鮮半島の伝統的な物語「春香伝」を題材にしたオペラ「春香」。 作曲者自身の演奏によって蘇る名曲「水色のワルツ」。 高木作品と感動的なコリア歌曲の旋律が流れる。
2000年5月28日(日) 午後4時
出演 演奏
日本コリア音楽祭 高木東六 ・作曲 オペラ「春香」より/ 水色のワルツ 第一部 オペラ「春香」より 第二部「水色のワルツ」ほか オペラ「春香」は戦後、在日朝鮮人たちが高木東六に作曲を依頼して作られた。作曲にあたり高木氏は朝鮮半島に渡り「アリラン」「トラジ」などの民謡を収集分析。コリア独特の3/4拍子のリズムを西洋音楽技法に取り入れ、村山知義の日本語の台本に作曲した極めて独自性の高いオペラ。ストーリーも“オペラは最後は主人公が死ぬもの”と原作ではハッピーエンドだったラストは書き換えられた。 当時の春香役はソプラノ大谷冽子、恋人役には永田絃次郎(金永吉)と日本を代表するソリストたち。なお主役の永田絃次郎は1960年日本人妻と一男三女を連れて朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮へ帰国した。 第一部では、当時の楽譜を元にオペラ「春香」の名場面を紹介する。 “きみに会う嬉しさの胸に深く 水色のハンカチを顰める慣わしが?” 「水色のワルツ」が歌われた1950年(昭和25年)は朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島は戦火にまみれた。一方、敗戦の日本は朝鮮戦争の特需景気により蘇生した。しかし企業は潤ったが労働者は貧しかった。そのような時代、哀愁を帯びた「水色のワルツ」は流行した。新天地を求めてブラジルに旅立った日系移民の間では今でも歌われているという。 多くの人に愛され“流行歌”となった「水色のワルツ」だが、これは演歌によく見られるペンタトニック(五音階)ではない。クラッシック畑の高木は“単調で低質な演歌ばかりヒットしていることに怒りを覚え、あんな曲はいくらでもできるという思いで作った。しかしこの曲は正統な発声技術を持った人でないと歌いこなせないだろう”と言う。 第二部で作曲者自身の演奏によるこの「水色のワルツ」のほか、シャンソン風な「ばらのエレジー」、戦時中に文部大臣賞を受賞した「朝鮮の太鼓」などの高木東六作品。そして“南であれ北であれ いずこに住もうと 同じ愛する兄弟ではないか”の歌詞の「高麗山河わが愛」などのコリア歌曲を紹介する。
朝日新聞(2000.12.13)から 音楽界2000年の回顧 「私の5点」 ◆長木誠司(音楽評論家) ・安部幸明の室内楽作品 流亞風弦楽四重奏団(3月23日、王子ホール)
雑誌 「SPA!」 より 四方田犬彦(よもた・いぬひこ) いいものを見たと思っした。心慰められるもの、勇気づけられるものを観たという気がした。高木東六のオペラ『春香』のことである。 5月28日、場所はカザルスホール。演出は新宿梁山泊の金盾進。ソプラノは田月仙。たった一日だけの公演だったが、劇場には気が充溢していた。拍手がいつまでも鳴りやまなかった。 『春香』は高木が1948年に作曲した作品である。台本を担当したのは村山知義。この人は以前にも同じ物語を芝居に仕立てて演出したことがあった。高木に作曲を供頼したのは、日本による植民地支配が終わってまもない、解放の興奮のさなかにあった在日韓国人たちである。まだ南と北に国家が分断して、激しい対立閑係に入る前のことだった。 原作となった『春香伝』は李朝を代表する口承文芸のひとつである。結婚を約束した少年と少女が、別れ別れとなる。少年は都に上って役人となる勉強をし、少女は悪代官から妾になるよう求められ、それを拒んだために土牢に入れられる。立身出世をとげた少年はやがて故郷に戻り、悪代官を退治して、婚約者を救い出す。 めでたし、めでたし。春香の物語は、これを聴いて泣かなかったら韓国人じやねえと、現代でもいわれているほど、探く民族の道徳意識に根ざしているメロドラマである。 日本の『婦係図』や『水戸黄門』を考えてみればいい。それは北や南といった政治体制を越えて、少なくとも10回ほどは映画にされている。 それをこともあろうに日本人の手に委ねるというのだから、依頼する側には覚悟がいったはずだ。おそらく高木には、彼らが信頼を寄せるに足る何ものか があった。彼はその何年か前に『朝鮮の太鼓』という、2台のピアノのための曲を書いている。ラヴエルがスペインやマダガスカルの音楽を素材として軽快な作品を書いたことが、念頭にあったのだろう。 今回、オペラの後で聴く横合があったが、律動的ないい助だった。高木がオペラを作曲するに至ったきつかけには、それがあったと思う。 1948年に『春香』が初演されたときの在日韓国人の興奮像に足る。おそらく大変な熱狂をもって、それは迎えられたはずだ。今回も劇場に年配の観客が見られたが、52年ぶりに舞台を見たという人がいたと思う。 彼らはオペラが終わった後、その開の長い歳月に対してどのような感慨を抱きながら、帰路についただろうか。 だが、さらにもまして感動的だったのは、高木東六の存在である。96歳の彼は小柄で瓢々とした雰囲気で舞台に現れると、田月仙(チョン・ウォルソン)のためにピアノ伴奏を務めた。 これではアベル・ガンスではないかと、ぼくは一瞬絶句した。このフランスの大監督が100歳近くになって、若き日に撮った『ナポレオン』の特別上映の会場に姿を現し、次回作の宣伝をしたことがあったからだ。 高木東六は、もう昔のことでほとんど憶えていないがと前置きしながら、このオペラのためにいくたびか、朝鮮半島に民族音楽の取材に足を運んだころの思い出を語った。 それにしても一人の芸術家が半世紀の後に、自分の藤の世代に囲まれて舞台に上がるとは、なんという光栄だろう。 2050年にたとえ四方田が生きていたとして、その文章を誰が憶えているというのか。 制作費の閑係もあって、今回の演出はいくぶん簡略化されたものだった。本来は歌手が歌ったところを、俳優が台詞で補ったりもした。すばしっこい道化が狂言回しを務めるあたりが、モーツァルトの『魔笛』おかしいなあというのが、ぼくの率直な感想である。 そうそ、ついでに書き記しておくと、劇場にはタキシード姿の、いわゆるオペラ通という人種が、まつたく見受けられなかった。どうやら日本ではオペラ通とは、東アジアには音楽などあるはずがないという洗線された認識を共有している人たちのことを、指すものらしい。 |